学校に行く理由と目的を考える
nengororinblog
ゆるり、ねんごろRIN
そういえば私も学校が嫌いであった。しかし子供時代は、学校なんてそう簡単に休めるものではなかった。とんでもなく頭の固い親は、幼い私がいくら泣いて懇願しようと、熱がないかぎり休むことを認めてくれなかったのである。いま思い返すと、また泣けてきそうだ。
それゆえ「今日は行きたくない」と娘が言えば無理強いしない親になったはいいが、いかんせん根本的なところに目がいっていなかった。というより〝目がいかないようにされていた〟と言うべきか。
学校の先生は賢くて偉い人、偉い人は立場が上で正しい言行をする人。それを鵜呑みにして従ってきた私のような人間は、何かに対して容易く疑問が湧いてこない。なんせ、この社会の仕組みはすべてそういうお偉いお方らがつくっているのだ。
たくさんのルールで縛りつけられ、やりたくないことばかりをやらされるのはどうしてだろうか。本当に全部必要なことなのだろうか。いずれにせよ、子どもたちが〝従う練習〟にいちいちそういった疑念を抱かぬよう学校で教育されていることは確かである。